学習指導要領/教育の情報化

言葉の力と確かな学力 梶田叡一先生

京都大学文学部哲学科(心理学専攻)卒業。文学博士。これまでに京都大学教授、京都ノートルダム女子大学学長、兵庫教育大学学長、環太平洋大学学長などを務め、聖ウルスラ学院理事長、松徳学院理事長などを兼務。中央教育審議会副会長・初等中等教育分科会長・教育課程部会長などを歴任。
主な著書に『教師・学校・実践研究』(金子書房)、『基礎・基本の人間教育を』(金子書房)、『和魂に学ぶ』(東京書籍)、『教育評価入門』(協同出版)など。

母語としての日本語

語彙が乏しくてはきめ細やかな認識を成立できない

母語とは、人が乳幼児期から周囲の人(特に母親)の用いる言葉を耳にしながら少しずつそれを習熟し、その言葉によって周囲の人との相互活動を徐々に発達させていく、といった経過を通じて、習得する言語のことである。母語はその人にとって最初の言語であり、そうした母語の体系を通じて、人は自らの感性や認識、思考や判断の基盤を形成していくことになる。

例えばカナダのツンドラ地帯に生活するイヌイットは、雪の状態を識別する言葉を何十と持っているのに、日本語ではほんの少ししかない。したがって、イヌイットは雪の状態についてより詳細な感覚を持って大きくなるのに対して、日本人の場合には雪の状態についてきわめて大まかな感覚しか育たないことになる。また日本語では、「青」という言葉で、伝統的に、緑や藍、水色などを一括して示してきた。だから「交通信号が青になったら渡りましょう(信号の色は本当は緑であることが多いが)」といった言い方が現在でもよくなされるのである。

このように、母語の語彙の体系がそれを用いる人たちの感性や認識の面での基盤となっていることは、もっと重視されてよい。日本語の場合、どういう面については詳細な区別が言葉によって与えられているのに、どの面については区別が粗略で一括した言葉を与えられがちか、といった点なども、長い年月の間の日本人の生活様式の反映として学ばせていく必要があるのではないだろうか。

認識の基盤としての言葉を考える時、我々の外的世界にしても内的世界にしても、感覚されたものは言葉によってカテゴリー化され、概念化され、それによってはじめて認識が成立する、ということを忘れてはならない。この場合のカテゴリーとか概念を暗黙の内に準備しているのが母語の体系なのである。

最近の多くの若い人達は語彙が少ないと言われる。しかし語彙が貧しくてはきめ細かな認識を成立させることは出来ない。何を見ても、ポジティブな反応としては「カワイイ!」で済まし、ネガティブな反応としては「ウザイ!」で済ますとすれば、単純で2値的な認識しか成立しようがないのである。三島由紀夫が若い頃、暇さえあれば辞書を操って語彙を増やす努力をしていたという話を、十分に参考としてよいのではないだろうか。

ゴージブスキーやハヤカワの『一般意味論』から言えば、内外の世界そのものは「現地」として考えられるのに対し、それがコトバ化(ロゴス化)され、認識となったものが「地図」ということになる。「現地」ができるだけ精密かつ歪みのない形で「地図」に反映されるためには、つまり私達の認識世界ができるだけ正確かつ妥当な形で成立するためには、語彙もレトリックも含め、母語を基盤とした言葉の力に俟たなくてはならない。

思考もまた言葉を用いて、通常は母語を通じて、初めて可能になる。そして、課題追求や問題解決といった活動も思考抜きには考えられない。そして思考を問題にしていくならば、その根底となる概念や論理の学習をどうするか、が大きな問題となる。さらに、思考といっても拡散的なものまでを考えるなら、類推や類比、外挿、連想などの学習をどうするか、ということまで念頭に置かなくてはならないであろう。

「読む」こと「書く」ことが強い強制力を伴う思考という性格を待つとするなら、思考にとって、言い換えるなら自己とのコミュニケーション(自己内対話)にとって、こうした活動が特に重要な課題となることは明らかである。文章や発言の筋道をきちんと読み取ること、筋道を通した発表ができること、論理的な文章が書けること、といったことが収束的思考の力を付けるためには不可欠である。同時に、一つの言葉なり概念なりからどのくらい多くのことを思い浮かべるか、ここまでの資料なり記述なりを延長してどのように考えるか、一見異なったものの間の類似性にどのように気付くか、といった拡散的思考に関わる活動の積み重ねも大切になるであろう。

記録とコミュニケーションの道具としての日本語

「書く」ことを重視し、練習させなくてはならない

まず第一は、記録の道具としての言語という点への着目である。情報の蓄積を個々の人の頭の中でやる(記憶)だけでは不十分なので、どうしても個体の外部に情報の蓄積(外部記憶)をしていくことになる。これによって、人の活用する情報量は飛躍的に増大することになるのである。コミュニケーションの基礎に、こうした言語記録が多く存在することはあらためて言うまでもない。

記録には図表もあり、映像もあり、音声記録もあるが、その主要な部分は言語による情報である。言葉を用いた記録は簡にして要を尽くすものでなくてはならない。このためには「書く」ことを重視し、その指導の中で少なくとも4W1H(誰が・何処で・何時・何故・どのように)の入った的確な記録が作れるよう練習させなくてはならないであろう。また、「読む」ことについても、数多くの記録の中から何を選択し、どう読み取り、どう意味付けて受け止めるか、という読解指導が重要になるのではないであろうか。

もう一つコミュニケーションということで、人が少なくとも「内的自己」「意識世界」「提示された自己(自己表出)」という3層構造を通じて他の人に対する表現を行っていることに留意しなくてはならない。「内的自己」とは、その人自身の心の中核となっている感性や基本的志向性、さらには実感・納得・本音の部分であり、当人には必ずしも意識化されていない。「意識世界」はその人の意識の広がりの中にある世界であり、その人にとっての現象世界と呼べるものである。そして「提示された自己」とは、その人が、自分自身の役割関係を基盤とし、その場や相手に応じる形で表出する言動であり、その人のその場での社会的立場で大きく関わってくる。

このような3層構造に着目するならば、人が他の人の話すことを聞いたり、書いたものを読んだりする場合、どこまでを考慮して読み取るか、ということが大きな問題となる。言葉として表現されているものが、その人の立場なり社会的役割なりをどの程度まで反映したものなのか、そこにその人の「意識世界」はどのように関わっているのか、またそこにその人の「内的自己」はどのような形で顔をのぞかせているのか、ということである。

例え「私の願いは・・・・」という文章があったとしても、それを単純に、その人の「意識世界」の純粋な形での表出、として見るわけにはいかない場合もあるのである。かつて、モーリス・ブランショが、『文学空間』として、「詠み手の空間」「聞き手の空間」「テキストの空間」を区別したものも、このことに関りを持っているのではないであろうか。

(2012年4月掲載)