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基調講演「教育工学と学びのデザイン」 変革ではなく、改善の連続である

タブレットPCが何かを教えることはない

タブレットPCを導入すれば、子どもたちが協働的に学ぶようになるという単純な話はありません。タブレットPCが何かを教えてくれることもありません。

子どもたちの使う「教材」が何より重要であり、教材を用いて話し合う中に「言語活動の充実」があり、「協働の学び」があります。

例えば、子どもたちがタブレットPCで何かを制作するとき、その元になるのは、自分たちで集め、撮影した写真であったりします。何を、どのように撮るか、どれを使うかは子どもたち自身が話し合いの中で決めていきます。教師は、そのための指導をタブレットPCの外側から子どもたちに与える。授業である以上、タブレットPCと子どもたちの関係だけで学びが行われることはありません。タブレットPCを巡って子ども同士が話し合い、それぞれが考えたことを集めて共有、比較しクラス全体で話し合う。今までと同じような一斉授業的な営みと連携することによって学習成果が生まれます。

授業の1シーンだけを見て「タブレットPCを導入すれば学習が良くなる」と短絡的に考えるのではなく、取り巻くさまざまな学習展開、その基礎となるような力がどうなっているか―、と授業を見る必要があります。

「学習規律」「下ごしらえ」の結果が質の高い学習へ

今大会の公開授業校の一つ、仙台市立愛子小学校では、大規模な学校であるにもかかわらず、どのクラスでも学習の規律がしっかりしていて子どもたちが落ち着いて学ぶ環境になっていました。例えば、辞書を引いて意味を調べるという学習が繰り返し行われており、日常化していました。子どもたちが自分の考えをお互い比べ合う際は、タブレットPCを使っていました。使う前には、自分の考えが明確になるようにノートに表し、それを端的にまとめて付箋紙に書き、その付箋紙を元にお互い話し合いを進めていました。

このような「下ごしらえ」がしっかりと行われていて、その結果、質の高い学習がタブレットPCを用いて行われていたのです。

「一斉授業」が良くないと単純にはいえません。従来と同じように黒板を用いた一斉授業があり、電子黒板、デジタル教材などを活用して、一斉授業としてより充実する方向に向かう。そして、子どもたちの道具としてタブレットPCが入ってきて、子どもたちが考えた成果はタブレットPCに表し、それを電子黒板に映し出して一斉授業に持っていく―。そのような形で授業が発展していくと考えています。

私たちは、新しいものや目を引くもの、場合によっては導入することを目的にしてしまいがちです。また、導入して使うことで学習がきっと良くなると信じるあまり、やや乱暴に授業をとらえてしまう。「教師が教えることはダメで、子どもが学ぶことは良い」と単純な二者択一に陥ってしまうことも時々あります。そうではなく、どちらもあって、それがバランス良くなっていること。少しずつ変化していくことが重要です。

人との関係性の中で学習が想起していく「学び」

最近は「学習」と言わずに「学び」と言うことが多くなりました。「学習」という用語はもちろん学術的な用語で、分野によってさまざまな言われ方をしています。例えば、心理学では「学習」を「知識を獲得すること、経験することによってその後の行動が変化すること、あるいは変化が永続的に続くこと」とされています。そのような学習観は間違ってはいないのですが、近年「学び」というのはもう少し社会的なことだといわれるようになりました。

例えば、「学習」は個の中に成立しますが、一人で「学ぶ」わけではありません。学び合うとか教え合う。あるいは先生に教えてもらうこともあるし、先生に自分の考えを伝えることもある。友だち同士で伝え合うことで、学べることももちろんあります。

一人ではなく社会、人との関係性の中で学習が想起していく。「コミュニケーション」とか「コラボレーション」などが重要といわれる時代において、そのように「学習」を少し幅広にとらえるというニュアンスが「学び」という言葉の中に入っているように感じます。

やらなければならないことをしっかりやる

一方で、「勉強しなさい」という言い方があります。「勉強」という言葉は、今改めて見ると「勉めを強いる」ですね。でも「もう学びの時代だから勉強じゃない」というのは、私は危険だとお話をしたい。

義務教育として考えたときに、小学校でも中学校でも、学校でしっかり子どもたちに勉強してもらう、学校で勉強したことをしっかり家庭で復習してもらう、そういった学習習慣や、わかることによって学ぶ意欲が芽生えてくる―といったことがずっと語られてきたわけです。ある意味、この「強いる」という言葉は今風じゃないかもしれません。しかしながら、義務教育においては教師側が、あるいは学校側が一定の強い信念を持って子どもたちに「やらなければならないことをしっかりやる」と伝えていくのもまた大事なことだと思っています。「しっかりと静かに学ぶ」「話し合うときは話し合うけれど、そうでないときはきちんと人の話を聞く」というレベルからしっかりと教えられ、育てられているからこその「学び」だと思います。

従って、「勉強する」とか「学ぶ」という言葉は、ある程度のバランスがあるだろうし、ある程度順序性があるのではないでしょうか。「子どもたちに基礎基本をしっかりと身に付けさせる」という記述が、学習指導要領が変わっても相変わらず上のほうに書かれている現実から考えると、基礎的な学びは、改めて大切だと思うのです。

一生の学び、学習を支える緻密な「設計」

「教育工学」の分野では「授業設計」や「教材設計」など、「設計」という言い方が多く使われています。単純に計画を立てましたということではなくて、もう少し総合的に考えて配慮して細かいところも考えて設計するという意味になります。

今日では、「授業設計」を「授業デザイン」、「教材設計」を「教材デザイン」と言うことが多くなりました。この「設計」と「デザイン」という言葉の関係は、「学習」を少し広く考えて「学び」と言っているように、「設計」を少し広く考えて「デザイン」と言っているように私は思っています。

つまり、学習を支えるためには、きめ細やかに設計されるだけでは十分ではない可能性があって、もう少し柔軟に弾力的にと言ったら良いでしょうか。一人の先生が緻密に教えるだけでなく、子どもたち同士の学び合いのようなダイナミクスを上手く取り入れながらというイメージで「デザイン」と使われているように感じます。

建築物でも見栄えがよく堅牢なそれは、美しくて過ごしやすくて非常に素敵ですが、建築士は綿密に構造設計しているわけです。そうでなければ見栄えは良いけれど、すぐに壊れてしまう。建築物が長持ちしていく背景には、緻密な構造設計が土台にあるのです。イメージのデザイン、見かけのデザインとは違う、いわゆる「設計」にあたる部分がしっかりしているのだと思います。

大人に向けての一生の「学習」、「学び」を考えたときの義務教育は、ある意味この土台作りに近い部分があるのではないでしょうか。「学習」、「学び」をデザインのようにとらえるだけでは足りなくて、昔から言われているような「設計」のように、緻密に細やかに一人ひとり確実に力を付けていくような勉強の態度が重要なのではないかと思います。もちろんこれはバランスが大事であり、それを忘れてはならないと思います。

変革ではなく、改善の連続である

私たちは変革とか改革というイノベーションに憧れます。そういう未来はとても素敵に見えます。確かに、誰かが新しいことを始めなければ、未来の姿は見えません。

総務省のフューチャースクール推進事業は、約3万7千校の日本の小学校、中学校、高等学校、特別支援学校のうち20校で行われています。まだまだごく一部の取り組みですが、誰かがやったからこそ、困りそうなことや整備に必要な予算などが経験できたわけです。次に整備する人はそれを踏まえてもう少し安く、短い期間で苦労せずにやれるようにしていく。

「教育工学」も同じだと考えます。変革を簡単に求めるけれども、これは改善の連続と考えられます。目の前には児童生徒がいます。その子どもたちは今の学習指導要領で、今の入試体制で生きていかなければならない。未来はもちろん変わっていくと思いますが、現実を目の前にしています。

しかし、今あるICTで、子どもたちに力を付けていくための指導法の工夫は、改善として考えればさまざまにあります。改革、変革までいかないとしても、今あるもので改善していく。

それを多くの先生方が実践できるように、そしてどのように普及していくのかということも、またこの分野の研究として重要なことなのではないかと考えています。

「リ・デザイン」とは「温故知新」である

今大会のテーマは未来を築く学びの「リ・デザイン(re-design)」。これは「リ」がつきます。「リ・デザイン」=「再設計」という意味です。そもそも、それなりの精度をもって一生懸命考えられて作られた設計であっても、時代、社会は変わりますから、設計を見直さなければいけないことが起こりえます。

未来を築く「学び」を考えたときに、今までのやり方を全部変えるのではなく、少し見直してみるということ。今まで長く行われていた方法は、それだけ堅牢なシステムであり、それだけ普遍性を持ったものであるからです。全部捨てて新しくすることとは違うと思います。

「リ・デザイン」の精神を受け継ぎ、古きを訪ねて、新しいものをどのように取り入れていくのか。「リ・デザイン」は「温故知新」なのだと思います。

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(2013年12月掲載)