学習指導要領/教育の情報化

新学習指導要領と授業改革

時代の変化の「変わり目」に出会う

今、私たちが時代の変化の変わり目に直面していることは、広く世の中での共通認識になりつつあると思います。つまり、これまでの経験知が必ずしも役に立つとは限らない時代になってきているということです。さまざまな分野にその一端を見ることができます。

2018年に発生した西日本豪雨の直後に、NHKの特集番組で紹介された内容を例に挙げます。そのなかで、過去30年間の「1時間あたりの降雨量」のデータと、さまざまな気象データを基に予測した今後30年のデータがグラフ上に示され、2017年に発生した九州北部豪雨の降雨量が、その境目に位置していることが語られました。これから先は過去30年間に蓄積されたデータ、つまり「平年」という概念から推測される降雨量を超える雨量が頻繁に観測される可能性が高いということです。まさに「過去の経験知が役に立たない時代」、言い換えれば「将来起こりうる事象が、先鋭的に起こりつつある時代」です。これは自然環境の話ですが、私たちはさまざまな環境の変化に直面しています。残念ながら、過去30年の経験知が将来を指し示す指針にはならないのです。

もう一つ、身近で分かりやすい例として、自動車の急速な進化があります。最近の自動車は人間がハンドル操作をしなくても、搭載されたセンサーが車線を感知し、きちんと車体を車線の中央に誘導してくれます。ほかにも衝突を予知して教えてくれる機能や、速度や車間距離を一定に保つ機能などがあります。それら最新の技術を総合すると、すでに半自動で運転できるところまで技術が進歩しており、すぐそこに自動運転の時代が来ていることを私自身も実感しています。

このような時代の変化が、私たちに何を教えてくれるのか、また何を考えるべきなのかが重要です。

学習指導要領の「時代認識」

それでは、学習指導要領の「時代認識」を確認してみます。平成20年の改訂版には、「21世紀は、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す、いわゆる『知識基盤社会』の時代であると言われている」(平成20年版学習指導要領 解説)と記載されています。実は今回の平成29年の改訂で、この「知識基盤社会」という言葉は姿を消しています。新学習指導要領の解説には「今の子供たちやこれから誕生する子供たちが、成人して社会で活躍する頃には、我が国は新しい挑戦の時代を迎えていると予想される。生産年齢人口の減少、グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により、社会構造や雇用環境は大きく、また急速に変化しており、予想が困難な時代となっている」(平成29 年版学習指導要領 解説)と記されています。平成20年の改訂時には「知識基盤社会の到来」という時代像を描けていましたが、今回の改訂では予想は困難とし具体的な未来像は示されていません。

そんな予測不能な時代において「学び」がどうあるべきかについて、平成29年版の解説で次のように続きます。「このような時代の中にあって、学校教育には、子供たちが様々な変化に積極的に向き合い、他者と協働して課題を解決していくことや、様々な情報を見極め、知識の概念的な理解を実現し、情報を再構成するなどして新たな価値につなげていくこと、複雑な状況変化の中で目的を再構築することができるようにすることが求められている」(平成29年版学習指導要領 解説 一部改変)。ここで示された「知識の概念的な理解」という部分が、今回の話の肝になってきます。

「資質・能力」と探究

新学習指導要領には、育成すべき3つの「資質・能力」が提示されています【図1】。別の言い方で「三つの柱」や「コンピテンシー」と表現されることもありますが、日本の教育課程においては、この3つの言葉は同じことを指していると理解して良いと私は考えています。三角形の図で示された3つの資質・能力のうち、今回は「知識・技能」を中心に話を進めます。新学習指導要領の中には「生きて働く知識・技能」という表現が出てきます。この「生きて働く」という部分がポイントです。

【図1】育成を目指す資質・能力の三つの柱

「知識」や「概念」という言葉について総合的な学習の時間の話から、さらに掘り下げて考えていきます。平成20年の学習指導要領改訂の際に、初めて総合的な学習の時間の章で「探究の学習過程」【図2】が登場しました。課題を設定し、情報を収集し、整理・分析して、まとめて表現する、という一連の学習過程です。

そして小学校の新学習指導要領の、総合的な学習の時間の章「第1 目標」には育成を目指す知識・技能として「探究的な学習の過程において、課題の解決に必要な知識及び技能を身に付け、課題に関わる概念を形成し、探究的な学習のよさを理解するようにする」と示されています。総合学習の「知識」とは何でしょうか。「技能」は分かりやすいと思います。発表する技能や、調査する技能、ICTを使って整理したり、分類したり、つなげて関連を見つけ出したりする技能、といろいろなイメージができます。一方で「知識」となると、子どもたちの学習活動が多様なだけに必要な「知識」は特定しづらいと思います。

「探究的な学び」とは、自分の中に起きたことを
一つひとつ積み重ねながら価値や知識をつくっていく、
構成的、形成的な流れです。

総合学習における「知識」の意味

総合学習における「知識」には3つの種類があります。まず1つ目が「課題の解決に必要な知識」です。課題を解決するために、何があるいはどうすることが必要か、解決する手掛かりを知っているということです。例えば、自分も先生も課題の解決策を知らないときは「専門家に連絡を取って教えてもらう手段がある」という知識がこれにあたります。

2つ目は「課題に関わる概念を形成」するというものです。これについてはすぐ後で詳しく説明します。

そして最後は「探究的な学習のよさを理解する」です。自ら探究的に調べることで、それまで自分が知らなかったことが分かる。あるいは、新聞などのメディアに書かれている情報はすべてではないことが分かる。そういったことを身を持って知ることが「探究的な学習のよさを理解する」ことです。

注目していただきたいのは2つ目の「課題に関わる概念を形成」するという点です。学習指導要領の文言は、中央教育審議会の分科会で議論され修正を重ねてまとまっていきます。実は、審議の過程ではこの部分は「学習対象に関わる概念的知識を獲得し」と表現されていました。それが最終的には「課題に関わる概念を形成し」に変わったのです【図3】。この2つの文言を見比べたときに「知識を獲得し」という表現と「概念を形成し」という表現から、それぞれどのような印象を受けるでしょうか。「知識を獲得」というと、知識の塊のようなものがすでに存在していて、それを自分の中にそのまま取り込むイメージがあるのではないでしょうか。一方「概念を形成し」と言うと、自分の中に一つひとつ積み重ねていくなかで徐々に立ち現れてくるものを概念として、自分でつくり上げるというニュアンスを受け取ることができます。このように、議論を通して文言が精査されることで、総合的な学習の時間における知識観が明確になってきたのです。

これまでは、インターネットや書籍で調べた内容をそのまま紙にまとめて発表してきました。その内容は、外から取り入れた知識であり、自分の中で生まれたものではありません。まさに「学習対象に関わる概念的知識を獲得し」という学習過程です。これから目指す「探究的な学び」はそれとは違い、自分の中に起きたことを一つひとつ積み重ねながら、価値や知識をつくっていく、構成的、形成的な流れなのです。

「生きて働く知識」とは?

探究的な学びによって得られる知識が「生きて働く知識」だとすると、「生きて働かない知識」とは何でしょうか。それを明確にすることで、逆説的に「生きて働く知識」を浮き彫りにしたいと思います。

「生きて働かない知識」とは、覚えた瞬間に忘れてしまっても特に支障がない知識です。社会科を例にとってご説明します。「1543年に種子島に鉄砲が伝来した」というのは、「知識」でしょうか?先ほどまでの話の流れをくむと、これは知識「だった」ということになります。少し前まではそうであった、ということが重要です。「1543年に種子島に鉄砲が伝来した」というのは史実として確かなことです。ポルトガル人が結果として種子島に鉄砲を持ち込みました。一昔前までは、テストの穴埋め問題で「1543年」という正しい年号を書かせたり、「ポルトガル人」「オランダ人」という選択肢の中から正しい方を選ばせたりすることがとても一般的だったと思います。種子島がどこにあるのか分からないけれど、名前を暗記するというような学習です。私もこのような知識観で育ってきました。

では、なぜポルトガル人は種子島にやって来たのでしょうか。彼らは、ポルトガルから遠く離れた種子島までどのようにしてやって来たのでしょうか。このような話になると、例えば「大航海時代」や「航海技術」、「羅針盤」、「植民地」など周辺の概念がたくさん必要になります。これまでは「1543年に種子島に鉄砲が伝来した」というキーワードを暗記して、固定的で応用の利かない、いわゆる「生きて働かない知識」を一生懸命学んできました。それを「学ぶ」と表現して良いか今では迷うところですが、そういう知識を蓄積してきたわけです。

「(個別的)知識」から「概念」へ

学習指導要領の「知識の獲得」と「概念の形成」の文言の違いの話を振り返ると、明らかに昔と今の学びでは、個別的・断片的な「知識」から、構造的・慣例的知識つまり「概念」へとパラダイムが変わっています。概念とは何かと言えば「言葉で説明でき、つながっている知識」、つまり自分の中でつながって文脈を持って語ることのできる知識を指しています。

このことは「知識」という言葉の意味がこれから変わっていくことを私たちに示唆してくれます。今はまだ学習指導要領の中でも、総合的な学習の時間の知識観が先行している状況ですが、個人的には次の学習指導要領では、すべての教科において「知識」のとらえ方が同じように変わっていくと考えています。

社会科の教科書に見る「概念的知識」の形成

この新しい知識観は、実はすでに教科書にも反映されています。

2015年に出版された中学校の歴史の教科書(出典:東京書籍『新しい社会(歴史)』,2015)を例に具体的に見てみましょう。先述した「1543年に鉄砲が伝来した」ということを学習するページでは、最初の見出しの横に「ヨーロッパ人との出会いによって、日本の社会はどのように変化したのでしょうか」という問題提起がなされています。

ただ実際の学校の授業では、まだこの問いを中心課題とする授業設計は極めて少ないのではないかと思います。

あくまで導入の一文として扱っているのではないでしょうか。しかし本当は、これがこの単元で「形成すべき概念的知識」に対する問いなのです。すなわち、この問いに答えるために本文が続くということです。ですから、この教科書では単元の結びは【図4】のようになっています。

始まりの問いと、最後の解である学習課題が一致していることが分かります。しかもその学習課題は、1543年という年号を穴埋めで答えさせたり、ポルトガル人かオランダ人かを2択で選ばせたりするような問いではなく、論述的で文脈的な、語りで形成される生徒の「概念」になっています。これを定期テスト風にアレンジすると【図5】になります。

鉄砲やキリスト教の伝来について、関連する用語を問題文と併記する形で予め提示して、それを使って自分の言葉で論述させる問題です。子どもたちの中で用語や知識を関連させて、概念を形成させるわけです。

すでに、このように教科書は変わっています。私たちがそのメッセージを受け取っているかどうか、そして受け取った上でどんな授業をするかということが重要です。

概念的知識を問う評価課題へ

このような「概念的知識」をさらに掘り下げていくと、「評価課題」という言葉にたどり着きます。

ここでいう「評価」は子どもたちを評価することではなく、子どもたちが歴史をどう評価するかです。鉄砲の伝来が日本の歴史に与えた影響を、子どもたちがどう評価するか、それが問われる課題だということです。

例えば、次のように思考を広げていきます。鉄砲が伝来したことによって、それまでの至近距離での戦い方が、距離を置いたところから鉄砲を撃ち合う戦い方に変わりました。それまでは戦う集団としての技能も、個人の刀や槍のスキルにゆだねられていましたが、鉄砲で遠くから撃ち合うことになり戦術が一変します。それによって過去の強者が弱者になり、弱者が強者になる可能性が生まれます。だからこそ、堺の鉄砲鍛冶が極めて重要になってきたり、その新しい武器をより効果的に活用できる集団が優位に立つようになったりしました。

もしも鉄砲の伝来がなく、戦国の戦い方が一変することもなければ、愛知県は今の観光資源を失っていたかもしれません。豊臣秀吉も徳川家康も、歴史に埋もれた人物であったかもしれないのです。

つまり一つの事実によって歴史が大きく変わるということを、その事実が持つ意義と課題から評価させ、論述させる、そんな学び方に変わっていくということです。

これまで知識は「獲得する」ものでしたが、
これからの知識に相当する「概念」は、
子どもの中で「形成」されていくものなのです。

新学習指導要領における「知識」と授業づくり

あらためて新学習指導要領における知識観と、それに伴う実際の授業づくりへと考えを進めていきます。新学習指導要領における「知識」とは、「構造化された概念的知識」です【図6】。これを「概念」と呼ぶことにします。探究の学習過程が繰り返されることで、構造化され、生きて働く概念的知識へと高まっていく。それが課題の解決に活用できる「生きて働く知識」です。

【図6】新学習指導要領における「知識」まとめ

これまで知識は「獲得する」ものでしたが、これからの知識に相当する「概念」は、子どもの中で「形成」されていくものだと、とらえ方が変わりました。中学生の時点では、その概念を使って自分なりの歴史観を持つところまでは難しいかもしれませんが、自分なりの歴史のイメージを持って自分の言葉で説明していくことが求められています。これが「構成主義的な知識観」です。知識は個人の中で構成されていくという構成主義の考え方です。

難しく感じるかもしれませんが、すでに教室では変化が始まっています【図7】。例えば皆さんも授業中に「今言ったことを、もう一回自分の言葉で説明してごらん」と促した経験があるのではないでしょうか。「○○さんが言ったことを、もう一回説明してくれるかな。△△くん」と別の子どもに説明させ「○○さんが言いたいことは、そういうことで合っているかな? 違うかな?」と議論を促す。そのような授業が当たり前に行われていると思います。

「え?それって、どういうこと?もう少し教えて」と呼び掛ければ、子どもたちは語ってくれます。少しあいまいな発言の後に「例えば?」と一言掛ければ、子どもは次の言葉をつないでより詳しい説明をつけ加えます。そんな丁寧に語り、考えさせる場を「立ち留まり」と言ったりします。

【図7】】教室で起きている変化

子どもの発言の後に教師が「はい、正解」と言ってしまうと、そこでやりとりは終わってしまいます。そうではなく、「今の説明でみんな分かった? 納得した?」と問いかけ、「まだ納得できていない人がいるようだけど、納得した人は説明してあげてくれる?」と、子ども同士が考え合い、伝え合うことを促していく。さらには「違う意見は言いづらいかもしれないけれど、意見が違うからこそ、いろいろなことが学べるんだよ」と子どもたちに伝えていく。このように授業を通して、正解あるいは最適解を子どもたち自身に見つけさせるという学びに変わり始めています。世界的に見ても、この「説明的な語り」ということが概念や知識の形成において重要であるといわれています。素朴でも、荒削りでも、自分の言葉で説明する。そうすることで、子どもたちが自分の中に一つひとつ積み重ねていきながら概念を形成していく作業が「学ぶ」ということです。「学習」から「学び」へというトランジションが今まさに起きているのです。

※学校とICTフォーラム(大阪会場)特別講演より
(2019年4月掲載)