学習指導要領/教育の情報化

教師力の再興を! 梶田叡一(環太平洋大学 学長)

1941年(昭和16年)島根県松江市生まれ。鳥取県米子市で幼・小・中・高校を終了。京都大学文学部哲学科(心理学専攻)卒業。文学博士。国立教育研究所主任研究官、大阪大学教授、京都大学教授、京都ノートルダム女子大学学長、兵庫教育大学長などを経て、2010年4月から環太平洋大学学長。中央教育審議会初等中等教育分科会長などを努める。
主な著書は『教師・学校・実践研究』(金子書房)、『基礎・基本の人間教育を』(金子書房)、『和魂に学ぶ』(東京書籍)、『教育評価入門』(協同出版)など。

教育は人なり

「教育は人なり」という言葉がある。まさに至言である。子どもを教え導く教師の人格や力量こそ、子どもに学びへの積極的な姿勢を培い、その学びを方向づけ焦点化し、1人ひとりの可能性を現実のものとする上で決定的な要因となる。

しかしながら、最近の一時期、「教師叩き」とも表現されるほどの酷い教師批判の嵐が広範囲に吹き荒れた時期がある。特に安倍内閣が力を入れていた教育再生会議の一部委員の発言は、マスコミが喧伝したこともあって、現在教壇に立っている教師の在り方に対する不信と批判の気持ちを強烈な形で煽ったと言ってよい。こうした中で、教師を職とする人たちを大量に教育界に招いて教壇に立ってもらおう、校長や教頭の任用も原則として教育界の汚辱に染まっていない民間人からにしよう、といった「抜本的解決策」が政治の場でも行政の場でも論議された時期があった。

こうした悲しい状況は、1990年前後からの「ゆとり教育」推進の中で、公立学校の教員の不勉強と独善が特に酷くなったことの一つの帰結であった。私自身40年近く、各地の学校の要請を受けて訪問指導をしてきたが、「ゆとり教育」の声が強くなってきた頃から学校現場での地道な教材研究や授業研究が衰え、その代わりに「子どもに寄り添って」とか「子どもの無限の可能性に信頼して」といった無内容なキレイゴトを口にする教師が増えていった様子を如実に体験している。

これに加えて、それ以前からも、組合活動に名を借りて自分自身の教師としての力量形成をおざなりにし、実際の教育活動でも手抜きをしてきた人たちの姿が、幾つかの地方で著しく見られたことも(組合活動家の中にも本当の教育者であろうとして真摯に努力を重ねていた熱心な人が居たことも知っているが)、こうした「教師叩き」を根強いものにしてきたという事情がある。

時代は大きく転換

いずれにせよ、時代は大きく転換した。「ゆとり教育」は完全に過去のものとなった。「子どもの目がキラキラ」「みんなイキイキ」といった表面づらのキレイゴトを口にするのでなく、子どもに現実にどのような力がついたのかを問題にする教育を実現していこう、という取組みが既に始まっている。そうした中で、教師が昔のように真摯に努力して、一日も早く保護者からも地域の人たちからも信頼され、尊敬される存在にならなくてはならない、と期待されているのである。内容・水準ともに高度となった今回の学習指導要領改訂の準備過程においても、このことは繰り返し関係者間で語り合われてきたことである。教員免許更新制を導入して10年ごとに30時間のリニューアル講習が課されたのも、こうした動きの一環と言ってよい。全国学力・学習状況調査が、少なくとも3年間は恣皆調査の形で実施されたのも、教育の「結果」に着目し、そこから日常の取組みを改革していこう、という教育現場に対してのメッセージでもあったのである。

使命感と力量を持つプロ教師へ

来年度からは、小中学校の学級編制基準を引き下げ、学校現場の教員数を増やして行こうという取組みが始まる。こうした措置も、改めて言うまでもなく、使命感と力量を持つプロ教師へと現実の教員のあり方が変革されていくことが大前提とされている。今こそ教師たるもの、独善や自惚れに陥ることなく、子どもと社会の未来を現実に創造していくのは自分たちである、という真の誇りと使命感に目覚めたいものである。そして、この誇りと使命感に相応しい人格と教養を、そしてプロの教育指導職としての力量とを身に付けるべく日々努力したいものである。

「日々の雑用に追われて」「大変な親や地域の人との対応に追われて」「新たな学びをする時間的余裕がなくて」といった弱音を吐いてばかりいるのでは仕方ないのである。

日本の長い歴史の中で、子どもを教え導く教師の職は、まさに「師」という言葉に相応しい重みと輝きを持つものであった。人々の信頼と尊敬を常に集める存在として何時の時代にも教師という存在が位置づけられてきたことを、今こそ思い起こしたいものである。

(2011年3月掲載)