学習指導要領/教育の情報化

人間教育とICT

現行学習指導要領のとりまとめの責任者であった梶田叡一・前中央教育審議会副会長(兵庫教育大学名誉教授・前学長)は、今春スタートした奈良学園大学の学長に就任、「梶田人間教育学」の名を冠した人間教育学部を創設され、自ら教授として教鞭もとられています。その梶田学長に、人間教育の目指すもの、ICTとの関係、そして、梶田学長が「人間教育シリーズ」として3冊の著書(『内面性の人間教育を』『たくましい人間教育を』『〈現代っ子〉に人間教育を』)を出版されたねらいを伺いました。

「不易」なる教育の根本課題に迫る

万古不易の教育の根本課題─。それが人間教育ではないかと思うのです。

今は経済的にも社会的にも世界各地の交流がどんどん進んでいって、世界が全体として動くようになりました。このため、世界市民としてやっていくためのグローバル・エデュケーションが大切だということは、あらためて言うまでもありません。また、技術革新は日進月歩ですから、今の世の中の動きについていくだけでも、特に理数系の学力はどうしてもつけていかなくてはなりません。また、こうしたことの土台として日本の伝統や文化を学び、それを基に世界各地の伝統や文化を学ぶことも不可欠となっています。

こうした教育課題は、いずれも大事なものですが、芭蕉の言葉でいえば「一時流行」であり、時々に変化していくものです。これと同時に「不易」の課題を、いつも頭に置かなければなりません。教育というのは、その時その時の課題ということで色付けしていかなければいけないけれども、そもそも本来どうあるべきなのか、があるわけです。芭蕉の言葉でいえば「万古不易」の、永久に変わらない教育の根本の課題があるのです。それが「人間教育」ではないでしょうか。

人間教育というのは、1人ひとりが深く自分の人生を生きていけるように教育していくことです。別の言葉で言うと、自分自身の固有の世界を大事にしながら、自分として本当に満足のいく毎日を送っていけるようにするということです。そこまで1人ひとりを深めていく、高めていく、そういうことが教育の究極的な課題ではないでしょうか。

その具体的な在り方として、現在の状況ではグローバルということが強調されたり、伝統文化が強調されたり、理数系の力が強調されている、と考えていくべきでしょう。根本が抜けた教育になってはいけないと思うのです。

例えば、良い学校に、有名大学への進学はどうかとか、一部上場企業への就職はどうかとか、そういう見方があるけれど、これももちろん大切です。しかし、こうした見方は、極端なくらい「一時流行」的なんですよ。表面的すぎるんです。一流大学へ行ったって、一流企業へ入ったって、良い人生になるかどうかはまた別の話なんです。だからこそ、やっぱり人間教育という不易の教育を考えていかなくてはいけないと思うのです。

同時にその教育を受ける過程、学習していく過程、その具体的な在り方もヒューマニスティックなものになってほしい。そういう期待が「人間教育」という言葉には込められています。

例えば韓国の大学受験の状況がよく報道されますが、あるいは中国でも一部そういうことがあると聞くわけですけれども、有名大学を目指すこと、そして社会的に出世することそのものが勉強の目標になり、そのためになりふりかまわず突き進む姿が見られると言われます。もしもそうであるなら、これは、とてもヒューマニスティックとは思えないでしょう。その子の豊かな可能性を全部削ぎ落とし、1つのことに特化して受験勉強をやっていく。こういう教育の過程、学習の過程では、人間的な成長と無縁になってしまうのではないかと思われてならないのです。

大学教育のあり方として人間教育を追求

人間というのは、その人なりの持ち味ができるだけ生きていかなきゃいけないし、その持ち味が生きていくためには、あまり特化し過ぎないで、いろんな可能性の同時追求が必要となります。大きな圧力のもとでとか、非常に厳しい指導のもとでということも、時にはあっていいのですが、自分からの内発的なものを大事にしながらやっていかないと、長い目で見たら、その人の持ち味は多面的に伸びていくことができないでしょう。

だから最終的に人間として深く生きられるようになるためには、プロセスの中でもそういう学習のあり方、教育のあり方を大事にしなきゃいけない。これが人間教育だということを今言っておかなければならないと思うのです。

そういうことは誰しも考えればわかることなんだけれども、どうしても目先のことだけになりがちです。奈良学園大学の人間教育学部をスタートさせるのは、そういうことは忘れないで、まず大学教育のあり方として人間教育を追求したいと思うし、同時にそこで育つ学生が教師になることで、人間教育を実践していってほしい、と思うのです。

人間教育の理念を実現するための具体的な教育活動の在り方だとか、カリキュラムの在り方も研究開発していけるような学部になってほしいと考えています。

人間教育の媒介としてのICT技術の大切さ

人間教育と、ICTに象徴されるような現代の技術的な発展が無関係だとか、人間教育では技術的な発展のことは考えなくていいといった誤解が一部にあるわけですが、そういうことではないと思います。深く生きるための情報を得る、深く生きるための知的な刺激を得るためにも、今のICT技術はとても大事です。

それだけでなく、結局は人が人を教育するわけですから、その媒介になるものとしてIT技術を活用すれば、人が人を教える、人と人とがコミュニケーションする、ということが今まで以上に効率的な形でやっていけますし、多面的な広がりをもってやっていけます。

例えば今一部の小学校、中学校、高校、大学でタブレットを持たせて学習することをやっています。タブレットを使うだけでも子どもは喜ぶでしょうが、そこで良いソフトを準備すれば、今まで以上に根本からいろんなことを考えるチャンスを子どもに与えることにもなるでしょう。また、1人ひとりの子どもが持っているこだわりも既習事項も関心のあり方も、それぞれ違うわけですから、その違いに対応した先生とのコミュニケーションが今まで以上にやれるでしょう。

集団的な授業の場面では、電子黒板が入ってきています。これは今までの黒板とは比べ物にならないぐらいわかりやすく大量の情報提供ができます。しかもどういう形で情報提示をしたか、あとで先生自身が振り返ってみるための記録がきちんと残せます。今までの黒板で、肉声で、教科書を使って、というだけの授業に比べれば何十倍、何百倍の深さと広さと効率性をもった教育の在り方を、その使い方によっては実現していけるでしょう。

「IT基本法」で活用の格差是正を

教授力を高めるために、積極的なICT活用を

ただ、これをやっていく上で今の問題は何かというと、やはり地域の経済力の差です。家庭の経済格差によって子どもの学力に大きな違いが出てくるという由々しき問題が表に出てきていますが、それにプラスして地域の経済力の違いもICT活用に関係してきています。また、市町村長、あるいは知事、あるいは国の教育行政を握る人の考え方次第で、ICT活用に大きな差が生じているように思います。IT技術がすばらしいものであればあるほど、さまざまな形で生ずる格差が、見過ごすことのできない問題になってくるのではないでしょうか。

ですから、国のレベルで「IT基本法」みたいなものをつくって、最低限これだけの環境を各学校に、また1人ひとりの子どもにしなくてはいけないといった措置を、こういう時代にはやっていくべきではないかと思います。

それに関連してもう一つ忘れてはいけないのは、現場の先生方、小中高には百万人近くの先生方がおられるわけですが、ICTに対する理解、活用能力に大きな差があることです。今教壇に立っている人たちは、教授力を高めるために、ITの活用技術についてはもっと積極的になるべきではないかと思います。こういう場面にはこういう機器を使って、こういうソフトを活用して、こういう活動をしていったら、10年前、20年前とは大違いの教育ができる、ということについて理解し、自分でそれをやっていける力をつけていくことが今特に必要じゃないか、と思われてなりません。

「人間教育シリーズ」出版の趣旨 子どもが人生を深く生きていく教育指導のために

「人間教育シリーズ」梶田叡一氏著最終的には子どもたち1人ひとりが自分の人生を深く生きていくようになってほしいわけですが、人間教育のプロセスとして、子どもがどういう資質能力を身につけていったらいいか、そのためにどういう活動を準備していったらいいか、指導していったらいいか、等々を考えるために、このほど「人間教育シリーズ」の3冊を出版しました。

内面性やコーピング(対処性)を強調

内面性ということを繰り返し言ってきたのですが、結局、深く生きるとか、自分の人生に責任をもてるようになるためには、1人ひとりが世の中のことをわからなければならないけれども、自分自身の独自固有の世界、「我の世界」ということがわかって、それを大事にできなければならない。

そのためには先生自身が、世の中で何がよしとされているのか、正しいとされているのかを教えるだけでなくて、自分の中でピンと来るものは何なのか、自分の中で本当にワクワクするものは何なのか、にこだわって指導していかなきゃいけない。これが内面性ということを言っている根本の理由なんですね。

そういうことをやっていく上で、どうしても当人の側からの世界への対し方が大事になってきますので、繰り返し言っているのが対処性(コーピング)です。まあ人間弱い面もありますから、しんどいことになると逃げたくなります、ごまかしたくなります。それをどう自分で克服していくか。逃げる、ごまかす姿勢の反対は、コーピング(対処性)という言葉で呼ばれてきました。心理学の概念です。しんどいことを克服するには、このコーピング(対処性)を身につけなくてはならない。

尼子十勇士の筆頭と言われた山中鹿之助が、月山の月を仰いで「我に七難八苦を与えたまえ」と言ったそうです。「我に勝利を与えてくれたまえ」でもなく、「栄誉栄華を与えたまえ」でもなく、「高い地位を与えてくれたまえ」でもなくて、「七難八苦を与えたまえ」と言う。こういうふうに人間が祈るときの姿は非常に意気軒昂なんですね。エネルギーに満ちあふれているんです。「何でも来い!どれだけ神が私に七難を与えようと、それを受けて立つぞ!」という立ち向かいの精神ですね。こういう人間にやっぱりみんな育っていってほしいですよね。

そうした強さがないと、自分の中にこういう大事なものがあると気がついて、育てていかなきゃいけないと思っても、世間のいろんな障害にぶつかって、結局は逃げるかごまかすかになってしまう。それを、しんどければしんどいほど頑張るという気持ちに変えていかなくてはいけない。これがコーピング(対処性)ということなんです。

これは日本でも武士の心構えとしてずっと言われてきたことです。ヨーロッパ、アメリカで心理学の概念として対処性が言われるわけですが、日本でも言われてきた伝統的な大事な精神であり、価値なのです。

教壇に立つ人は、みんなそういうことを心得てほしいし、あるいは親も心得てほしいし、社会一般の方々も心得てほしい。そして、そういう方向で今の子どもたちが育っていくようになってほしい。これが内面性と並んでコーピング(対処性)を強調したい理由なわけです。

「開示悟入」など指導する原理の再確認を

そのほかに私は「人間教育シリーズ」の中でいくつかのキーワードを語っております。例えば「開示悟入」です。子どもたちに大事なことをきちっと示すべきですが、その前に開くということがなきゃいけない。これからやることに対して心を開かせて、その上でポイントとなる点を示さなきゃいけない。そして示したことを当人がきちっと受け止めて、自分の納得にまで、悟らしむるところまで、いかなきゃいけない。最後は、入らしむる、入ですね。きちんと自分の身につくところまでいかなきゃいけない。

「開示悟入」というのは、指導する側からの原理です。これはもともとは法華経を中国で訳した羅什が、「示悟入」に「開」を加えたんですね。もともとの法華経には「開」はなかったんです。それが日本に入ってきて、日本でも心ある教育者は「開示悟入」ということを言ってきたことを、今思い起こさなくてはいけないと思うのです。

日本ではすぐ、「子どもに任せておけばいい」「指導でなく支援していくべきだ」というようなことが流行るんですが、やっぱり開くにしても示すにしても、親や教師や社会的指導者の責務なんです。放っておいて自ら何か気づいてくれるだろうというわけにはいかない。開くという働きかけによって、当面学ぶべきことの課題性に気づいてもらわなければいけないし、示すことで大事なポイントをどう考え、どう理解していくかをわかってもらわなければいけないし、その上で自分の納得のいくようにもっていかなくてはならないと、きちんと自分の身についていかない。こういうことをきちんと考えてほしい。

そういうように人間教育をする上で大事な原理として具体で考えるべきものを、この3冊の中で言っております。まあ言われてみれば当然だなということもあるかもしれません。しかし今、人間教育のあり方を教育界全体の共通基盤にしていかなくてはいけないのです。このことをみんなで再確認していきたいものだと考えています。

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(2015年1月掲載)